一大文化サロンになった「シャーマンルーム」。
フジタとの出会いをきっかけに、シャーマンは美術家をはじめとするさまざまな文化人との交遊の輪を広げていきました。
ただ、当時はまだ食糧事情も最悪で、多くの画家たちは絵筆を握る気力を奮い立たせることも困難な状況にありました。シャーマンはなんとか美術家たちを元気づけたいと考え、凸版印刷のオフィスや空いている部屋を使って、芸術家などの文化人が集うサロンを作りました。これをみんなはし「シャーマンルーム」と呼びました。凸版印刷の山田社長は芸術愛好家というよりアーチストで、シャーマンのアイディアを歓迎し、応援してくれました。
シャーマンは自腹を切って、寿司をふるまったりするパーティも開きました。シャーマンの頭の片隅には、20世紀初頭のパリで、ピカソやマチスなど多くの画家、詩人を招いたガートルード・シュタインのサロンを思い描いていたようです。サロンという場が、日々の生活に苦しむ孤独な芸術家にどんな勇気を与えられるか、芸術の歴史の教養として知っていました。
「あの頃は、楽しい屈託のない日々でした。凸版印刷の私のシャーマンルームは、まるで美術館のようでした」(シャーマン談)
折々に集まった顔ぶれには次のような人がいました。
アーティストでは、藤田嗣治夫妻、猪熊弦一郎夫妻、イサム・ノグチ、荻須高徳夫妻、野口弥太郎、三岸節子、恩地孝四郎、佐藤敬・美子夫妻、沢田哲郎、利根山光人、伊原宇三郎とその子息たち、菅野啓介、関野準一郎、駒井哲郎、畦地梅太郎、中村研一夫妻、土門拳(写真家)・・・。その他にも、さまざまなジャンルの文化人がサロンに足を運びました。吉田青風(邦楽家)、秩父宮ご夫妻、勅使河原蒼風(華道家)、藤原あき(タレント)、芦原義信(建築家)、蘆原英了(音楽評論家)、團伊玖磨(作曲家)、宮城まり子(歌手・女優)、松本禎子(画家松本竣介夫人)、吾妻徳穂(舞踊家)、中山正善(天理教教祖)、原千恵子(ピアニスト)…(以上、順不同)。
まだ足の便も悪い時代でもあり、シャーマンはMGマグネットという車を購入し、彼らの送り迎えまでした。
「当時は車なんてあまりない時代でした。お互いに行ったり来たり自由にできませんでしたから、あの一台の車の中に一度に5、6人のアーチストが乗り込んでいることもあり、私としては『これで事故でも起こしたら、日本の美術の歴史は私を許さない』と思ったものでした」(シャーマン談)