藤田へのシャーマンの思いは芸術への情熱や確信と同価
フランク・シャーマンは東京・板橋の凸版印刷で、アメリカ本土から送られてくる雑誌などを再編集して印刷する仕事に従事しました。印刷所の近くの小竹町に、あこがれの画家・藤田嗣治が住むことを画家・向井潤吉から聞いてアトリエを訪問し、交流がはじまりました。
フジタとフランク・シャーマンの間の、友情、尊敬、感謝に裏打ちされた交流は次のようなものでした。
「シャーマンさんが、ことフジタのことになると、まるで『フジタ・マニア』と言いたくなる程、何事につけ一生懸命だった。
フジタの作品の収集は勿論のこと、その身の回りの細々とした物に至るまで、最大漏らさず集めていた。シャーマンさんの独自の『フジタ・メモリアル・ミュージアム』造りを目指していたのではないかと思える程だった。」(猪熊弦一郎「シャーマンさんの“シャッター・チャンス”」『履歴なき時代の顔写真』アートテック p.7)
「…藤田へのシャーマンの思いは、芸術への情熱や確信と同価であったと思われる。シャーマンが、自らの立場を守ることを考えることなく行動したのは、この信念により、こうした泥沼から藤田を救い出すことが、シャーマンが長い間憧れてきた日本美術そのものを混乱から救い出すことに通じる、という感覚があったのではないだろうか。」(矢内みどり『藤田とは誰か』求龍堂p.102)
戦後、フジタは、当時の一部の人たちの無理解と誤解から逃れ、芸術家として再出発するために日本を離れるという決断をしなければなりませんでした。 占領下において日本人の海外渡航が禁止されていた1949年に、フジタがフランスへ渡るために、経由地アメリカへの出国を助けたのもシャーマンでした。
1949年、ニューヨークに着いたフジタは、フランク・シャーマンに、日本から脱出し自由の新天地を得た喜びを何度も書き送っています。その書簡も、シャーマンコレクションの中に残されています。