「Lynks レオナールとぼく」藤田嗣治と猫の絵の物語
第一章
ぼくのあるじレオナールは、師団長の分厚いコートを着てよく散歩するので、村人からは閣下と呼ばれているが、ぼくはレオナールからリンクス殿下と呼ばれている。だから、格はぼくの方が上だ。
ひぐらしが喧しくなると、湖水の方からかすかに涼気が流れてくる。
最近アトリエにもこもらず、座敷に寝転がってタバコばかりふかしているレオナールが、にわかに忙しそうに働いている。キャンバスやデッサン帳を家の中から庭に運び出してはまた奥へと戻り、それを繰り返しているうちに、廃棄物の山ができ上がった。
レオナールがすっかりしぼんでしまったのは、ぎらぎらとした陽が何もかも炙っていたあの日からだ。どこの家も、仕事を放り出して座敷や縁側にうなだれたまま正座して、床の間に置かれたラジオからふしをつけずに歌う甲高い声をじっと聴いていた。朝からどこへやら出かけていたレオナールが、夕方近くにもどってくると、縁側で寝転んでいたぼくを抱き上げ、あごの下をなんどもなではじめた。ときどき気持ちよさにのどがなるとぼくを見下ろすが、すぐにまた、遠くたゆたう雲のあたりをぼんやりと眺めていた。
レオナールはゴミの山からデッサンを一枚抜いてまるめると、マッチをこすった。火はじつによく燃えた。とくに絵が描いてあるキャンバスを投げ込むと低くうなるような音をたてて火柱を上げた。ぼくは驚いて座敷の奥に逃げたが、襖の陰から恐る恐る見ると、その美しさといったらなかった。部屋の中にも花が咲いたように光が揺らめいている。火は怖いけど、これほど陶酔させるものをいままで見たことがあったっけ。
大きな山があらかたなくなって、燃えカスのなかから煙ばかりが立ち上がるころになると、縁側にもどってまた寝そべった。ぼくは光がきらめく眠りの海の中に舞い降りていった。
どのくらいたったころだろうか。山の端に日のなごりをとどめるばかりのころ、冷たい風にぶるっときて目が覚めた。レオナールが怖い顔でぼくを見ながら、一心不乱に画板に留めた紙の上で手を動かしている。
「動かないで」とレオナールは叫んだが、尿意をもよおしたぼくはそんな命令を聞いてはいられない。踏み石に飛ぶと、茂みの方に走った。
「もう絵はやめたんじゃないの」
「ああ、やめましたよ」
縁側に放り出されたさっきの紙は、縁が焼け焦げている。
火の中から急いで取り出したスケッチブックの一枚かもしれない。ぼくは絵を見てぎょっとした。そこにあるのはまぎれもなくぼくだが、今までの絵とはまるで違う。ああいう、かわいらしく媚を売るようなしぐさばかりの絵は正直嫌いだった。ところがこのデッサンは、鉄に刻んだような張り詰めた線が画面いっぱいを埋めている。毛を全部抜かれちゃったような気がして思わず身震いが走る。絵に鼻をこすりつけると、ケモノの匂いがした。
レオナールはまた紙を取り上げて画板にはさむと、鉛筆を動かしはじめた。
「魂を取られちまうよ」と言うと、「いやいや、殿下の無心の寝顔を見ていたら、私の方が魂が抜かれてしまうような心地がしました」とレオナールは真顔で答えた。
「また絵をやりはじめるんだね」
「殿下がやれとおっしゃるので」
「ぼくはそんなことひと言も言ってないぞ」
「いやいや、あなたの寝姿が私に教えてくれたんです。おまえにはそれしかないよ、と」
※猫の絵の物語は、「Lynks」第二章に続きます。
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